春来嵐夜



 風が強いな、とがたがた激しく揺れる雨戸を見遣り、思った。明日の朝までに外れてしまいやしないかと心配してしまうほどに、風はあまりにも遠慮がない。
 まだ雨が降っていなかった夕方の内に補強させておくべきだったかもしれぬ、と腹心に相談するか、迷っている内に雨が降りだしてしまったことを後悔する。これだから己の思考の遅さは牛の歩みだなんだと馬鹿にされるのだ。別段周囲の妖怪になんと思われようと腹を立てたりすることもない牛鬼だが、その事で何時か、主にあいつの考えは使えぬと言われやしないかとだけ、時折首の後ろをぞろりと冷やした。
 この雨戸が風に吹き飛ぶことがあれば、一層にそう思うだろう。
 ガタン、バタンと暴れる雨戸を見つめながら、また今も雨垂れが伝ったかのようにうなじの辺りを冷たく這った思考を振り切るよう、首に絡む黒檀と称される髪をかきあげた。
 その時。
 バタッ、タタン……ガタッ、トントン……
 風に揺れるばかりと思っていた雨戸の音に、違う音が混じるのに気付いたのは、偶然だ。だがその音に気付くと同時、嵐に荒れる外の気配に一つ、見過ごせないそれを見付けたのは牛鬼だからである。
 慌てて縁側へ下りて障子と雨戸を外した。
 途端に吹き付ける強い風に勢いづいた大粒の雨粒。その中で。
「よう、牛鬼」
 雨など降っていないと思わせるほどにからりと笑う主がいた。
「っ、総大将!」
 気配に違いはないが、やはりまさかという思いの方が強かった。驚きの声を上げた牛鬼は物を考えるよりも先に、挨拶のつもりで上げられた片手を掴み、中へ強引に上がらせる。ぬらりひょんは「おい草履!」と上りながら器用に爪先で草履を脱ぎ捨てていた。初めから散らかったそれは、もしかしたら風に吹き飛んでしまうかもしれない。
 雨の届かぬ内側まで主を引き込めば、髪についた雫を払うためにふるりと犬のように頭を振る。ぱらぱらと飛び散る雫が床に丸く染みを作った。
 何故こんなところに、などという問いは無意味だ。彼は自由奔放なぬらりひょんなのであるから。来たいから来た。問えばこんな答えが返ってくるのは明らかだった。
 代わりに、牛鬼は手ぶらである彼の両手を見下ろす。
「傘は如何なされた」
 詰問じみた口調になるのは仕方がないだろう。何せ彼が気紛れと思い付きで取った行動に振り回されることは、最早奴良組幹部の日常である。少なくとも、この雨の中を傘も差さずに出掛けるなど、立派な迷惑行為だ。
 そんな牛鬼の内心を知ってか否か、ぬらりひょんはくるりと焔の潜む瞳を輝かせる。
「それがのう、屋敷を出てすぐな、こうぽーんと飛んでいってしもうたわ。いや見物だった」
 『ぽーんと』言いながら、ぬらりひょんは飛んでいった傘のつもりなのか、手をくるくるさせながら頭上を翳す。頭が痛い。飛んでいった傘を追いかけもせず、まるで巨大な竹蜻蛉を飛ばしたかのように笑って見送ったのだろうことは想像に難くない。
「そこからは?」
「戻るのも面倒でそのまま、な」
 唸るような牛鬼の問いかけに、笑いながら言うその髪から一滴、水滴が床へと滑り落ちる。ああ、手拭いを、と思いながらも、牛鬼はそれでは遅いと自身の着物の袖で彼の頭を撫でた。そう言えばこの嵐の中、江戸から来たにしては、髪も若干濡れているだけで、着物も肩の辺りが色を変えている程度であまりに濡れていない。牛鬼が袖で軽く拭っただけで、髪の水気は殆んど飛んでしまった。まるでここに来るまでの間全く濡れず、板戸を叩いたその時にのみ雨を被ったかのようだ。事実、そうなのだろう。
 ぬらりひょんの畏れとは雨粒さえも避けさせてしまうのかと感心した。だが、それとこれとは別問題だ。
「総大将……」
 こんな悪天候の中、大した用もないのに出歩かないで欲しい。それ以前に、出かけるならせめて誰か本家の妖怪を共に連れて欲しい。牛鬼の願いはそう難しい事だろうか。聞き入れられた事は一度たりともないのだ。
 説教の予感に、ぬらりひょんはいち早く牛鬼の肩を叩いた。
「それにしても戸を叩いた時、よう直ぐに判ったのう。気付かれんでも致し方なしと思うたが」
 結局牛鬼の説教などでは彼の自由の妨げになどなろうはずもない。
 今日もまた溜め息一つで、言うはずだった言葉を飲み込んだ牛鬼だ。
「ええ、夕方の内に雨戸を補強しておかなくてよかった」
 実は補強しようと思ったけれど、それを告げそびれたのだと言おうかとも思った。それを言って、彼が呆れないかどうかを確認したいという気持ちがあった。
 思った、けれどそれを口にするよりも先に、主は嬉しそうに口角をつりあげたのだった。それを見て牛鬼は困惑する。
 今の自分の言葉は、果たして彼が笑うような言葉だっただろうか。
「ワシが来るのを予感しておったんじゃろう? 殊勝な心がけ、誉めてやろう」
 そう、言ったぬらりひょんは先のお返しとばかりに牛鬼の頭を両手で包んだかと思うと、ぐしゃぐしゃと指に絡む髪を存分に掻き回した。まるで犬でも可愛がるような仕草だ。これのどこが誉めているのか判らない。だが彼は真実そのつもりなのだろう。
 指通りのいい牛鬼の紙を指で梳き、無理に屈めさせられた後頭部を幾度も撫でられる。髪を引っ張られて痛いし、気の所為でなければ時々髪の切れる感覚さえある。
 尤も。
 何時もなら止めろと逃げたがる牛鬼だが、この日は違った。主のしたいように頭を撫でさせる。
 自分が考え至らず戸を補強しそびれたのを、彼の訪れを予感したからだと断言された。彼が言った言葉は、牛鬼にとっての真実だ。己の失態となる所だった出来事が一つ、主を想う気持ちとなり昇華した。
 救われた、などと言えば大袈裟だと笑うだろう。だからせめて、謝礼の代わりに髪くらい好きにさせてやろうと思ったのだ。


 翌日、一角だけずぶ濡れになった廊下と、乱れまくり絡まりまくりの牛鬼の髪とに短気な補佐役が悲鳴を上げたのは別のはなし。

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牛鬼は決して優柔不断なのではなく、考えてから行動するまでに間があるタイプなのです、よ!!
好き嫌いはこの上なくはっきりしてそうですけどね。嫌いな食べ物とかぬら様に鼻摘まれて強引に口開けさせられてつっこまれるまで食べなさそう。
ぬら様のオレ様我流道ぷりに辟易しながら癒されたり憧れたりしてる牛鬼が好き。