月すら射さぬ、闇の底。



 眼の前が真っ暗で何も見えない。
 不意に落ちた視界に、身体が勝手に膝を折った。
「がっ……」
 口を塞いだ手が生温く濡れ、遠のく聴覚が微かに畳に粘液が落ちるぼたぼたという不快な音を聞いた。
 ごぼり、と咽喉を逆流するそれを吐き出せば、薬草と毒の入り混じった臭いが鼻をつく。血を吐いているのだという自覚もないまま蹲り、陸で跳ねる魚のようにみっともなく肩を揺らした。
 身体の循環が逆流しているのではないかと思う。毒が、身体を巡るのを止めて出口を求め溢れ出ているのではないかと。腹に力を込めるまでもなく喉の奥からついて出ては掌を伝い、手首に絡んで肘から滴るのに際限がない。
 ヒュ、と吐き出しすぎた息を吸うのに濃度の高い毒を、飲み下して口内が焼ける。焼けつく感覚はあるのに、肌は少しも熱を持たずにただ冷たいばかりで、生温いこの体液は少し前まで果たして本当に体内を巡っていたのだろうかと疑問すら覚えた。
 時々、こんな風に毒の制御が出来ない日があった。体内に猛毒を飼うのが鴆だ。以前は荒事は無理でも日常に大きく差し支ることなく生活を送る事が出来たが、年月を経るにつれ、体内で高まった毒の濃度に耐えきれなくなるのか、突然動けなくなる日が出るようになった。
 経年の内にそれすらにも慣れ、予兆を感じれば足は勝手に屋敷の最奥を選んだ。表の薬鴆堂には咳の一つ聞かせられない。跡継ぎの居ない当代の鴆の死期は、誰に悟られることも許されない。何時死ぬのかと囁かれながら、気付いた頃には代替わりが済んでいるのが望ましいと言ったのは遠き日の父だ。猛毒で音も証拠もなく相手を屠るを畏れとする鴆は、命を引き換えにする事さえ惜しまねば奴良組の切り札だ。出入りにさえ満足に出られず、百鬼夜行の群れに名を連ねるものとしての責務も果たせないながら大事に飼われる理由がそれである。
 周囲には誰の気配もなく、またあればそれは本能の屠る対象であり、今の自身ならば相手が誰とか認識するより先にこの毒羽で存在するものを殺すだろう。羽が、鴆の周囲を不規則に舞う。浮き上がっては畳に落ち、血溜まりに浮かんでは溶けるように姿を消した。自身の畏れに比例するその不安定さが、まま今の己だ。
「ふ……っは、ぁ……」
 奇妙な落下感は貧血によるものだろうか。まるで自身が深く深く、闇の底へと落ちていくような錯覚を覚え、手が畳の目を掻き毟った。不意に投げ出された水中を、溺れまいと足掻く両腕もかように無力か。
 畳の上で冷えた血が頬に冷たく触れる。ああ、底だ。
 唐突に悟った。
 井戸の底なのだ。ここは。だからこんなにも暗くて、こんなにも冷たくて、息が出来ないのだ。日の光もなく月の明かりもない、こんな闇で。
「……かっ、ハ、」
 口腔に溢れる毒を吐き出す気力も、ない。端からだらりと垂れたそれは如何程にみっともないだろう。
 厭だ、と感じた。
 一人こんなところで死ぬことも、苦しさに耐えなければいけないことも。玩具に飽いた子供のように降って沸いたその言葉に、身を委ねようかとも思う。
「……ッ、ふ」
 眦を滑ったそれの暖かさに眼を閉じる。血よりも軽いそれがするする鼻を横切り、こめかみを伝い落ちる。
 振り絞るように、再び滴を結んだそれを水面に落とした。鴆はもう何も、出るものもないと内心で呟く。
 畳の上に伸ばした指先が、小さくささくれた目を掻いた。這い上がろうとした、けれどやはりぬめる底を滑るばかりで、この頭すら持ち上がらない。
 また、もうないだろうと思っていた雫が眦を濡らす。
 いやだ、と毒々しい口唇が僅かな空気を吐き出した。
「……」
 言葉さえ空気を揺るがすことのないその底で、ふわり、と鴆の頬を温もりが掠めた。
 さざ波すら立たぬ地中の水面を揺らす風など、何処にもない中。
 羽が舞い落ちるように鴆の髪が、そっと何かに触れた。
「……」
 多分、自分は血を吐きすぎてもう意識も朦朧としていて、耳もまともじゃなくなっているのだ。
「――鴆」
 伸ばした指先を、誰かに握り返されたような気がするけど、それもただの幸せな夢に違いない。