閑話休題-接触禁止



※閑話休題-接近禁止の続き。鴆が卵産んだ話です。



 その部屋へと入る障子には数日前から一枚の紙が張られていた。
 貼ったのはリクオ。それを張り付けた上で皆に告げたのは立ち入り禁止だ。周知徹底を呼び掛け、もし破れば即破門も辞さないという。
 無論、奴良組三代目総大将の命である。本家妖怪で逆らうものなどいない。だが。
「リクオ様、これなんですか?」
 見慣れぬマークにこんな質問は後をたたない。この数日間幾度となくかられた問いに、答えるリクオも慣れたものだった。
「バイオハザードマークだよ」
 バイオハザード=有害な生物やその構成成分が環境中に漏れることによって発生する災害のこと。人間と自然環境に重大な危険をもたらすような生態異変を発生させうる。生物災害ともいう。 バイウィキペディア
「この先立ち入り禁止ってこと」
 簡潔すぎる答えに、やはり判らないと首を傾げる雪女に、それ以上の説明を重ねるつもりはなかった。そう言ったリクオ自身は、膳を二つ重ね、何の躊躇いもなくその障子を開けて中へと入ってしまう。
 雪女の前でぴしゃりと障子が閉じられれば、そこは無人の部屋。一つの部屋を挟んだ向こうが、該当の隔離部屋である。
 入るよ、と一声かけて襖を開けた瞬間飛んできた無数の毒羽をかわし、舞い散る羽毛の奥を覗きこんだ。そんな動作も慣れたものである。
「鴆くん?」
 一通りの洗礼を受ければ中に入れることはこの数日で確認済み。力をなくしてふわふわと床に散らばる羽は程なく霧散し、内より発せられる畏れが弱まるのを確認して、部屋に踏みいった。
 客間の一つであるその部屋の作りは至って簡素だ。小さな文机に床の間。床の間には花瓶が飾られている。そして部屋の中央には敷かれたままの布団が一組。敷きっぱなしなのは客人の体調を考慮してのこと。
 その部屋の客人は今、リクオの視線の先で部屋の隅で縮こまり、ぶわりと羽を逆立てていた。
「リクオッ、その……すまねぇ……」
 毒羽の隙間から顔を覗かせているのは鴆である。主に己の羽を向けてしまった事を恥じ、平身低頭した姿でそこにいた。
「いいよ、慣れたし」
 気にしないで、と優しく告げることこそが、鴆の罪悪感を上増ししていると、当然確信した上での笑みである。
 ぎゅうと皺を刻んだ眉間に庇護欲と、それに相反するものを抱きながら、リクオは鴆の対角の離れた畳に座った。
 ふる、と鴆の肩が震える。その背後に一瞬羽が具現化したが、すぐに掻き消えた。本能が攻撃したがるのを、理性で留めているのだ。
 鴆の腕の中には、卵が一つ。自身で産んだものである。父親はリクオ、ということになる。
 男であるはずの鴆が卵を産んだと騒ぎになったのは少し前の話だ。強い妖気を内に得れば男でも孕む事があるという。期待していなかった奴良組四代目の誕生に本家はこぞって祝い立てた。
 だがリクオは鴆の産んだ卵を、素直に喜ぶ事が出来なかった。
 それというのも、この距離である。彼が産んだというそれを抱く間は自分以外の他者を一切寄せ付けないらしい。それは卵を生む経緯の一端を担ったリクオですら例外ではない。
「夕飯、持ってきたんだ」
 鴆の様子を見つめながら、リクオはにこりと笑う。
 二つ、並べられた膳。二人で共に食べようと言っているのは明確だ。客間はそう広くない。リクオが離れて座っていても、二人の間の距離は五メートルもないだろう。
 鴆の肩が緊張しているのがここからでもよく判った。
「い、いらねぇ……」
 布団を挟んだ向かい。鴆はふるふると首を振る。
 リクオは駄目だよ、と態とらしく顔をしかめた。
「妊婦っていっぱい食べなきゃいけないらしいよ? 鴆くんはもう産んじゃってるから、そんな必要もないのかもしれないけどさ。でもちゃんと食べないとただでさえ身体弱いんだから……」
 妊婦の単語に一瞬眉がつり上がったが、怒声は上がらなかった。心配しているのだ、と言えば鴆の立場が弱くなる。
 それでも、ぼそぼそと食べたくないと言い張った。
「食欲、ねぇんだ。悪ぃけど……」
 置いていってくれ。後で食うから。
 そんな風に、言ったからといってリクオが引き下がるとでも思っているのだろうか。だとしたら鴆は未だにリクオを理解していない。否、夜であれば違ったのかもしれない。鴆の妖怪としての高い自尊心を理解し、その矜持を折らぬよう取り計らっただろう。
 だが今は違う。日はまだ高く、リクオの意識はヒトのそれだ。
 妖怪の方が自分の欲に忠実というが、ヒトのエゴに勝るものは果たしてあるだろうか。
 リクオは鴆の腕を眇めた視線で眺めつつ、思う。その腕で大事そうに抱き抱えられている卵。初めて見たときには真っ白だったが、時間が経つにつれて緑がかってきた。時折玉虫の羽のように不思議な光を放つ。大事に、大事に、鴆に抱かれた卵。
 リクオすら、これ以上は近寄れないというのに。
 今その卵は誰よりも鴆の傍にあり、そして鴆の庇護と愛情を一身に受けている。
 あんなものを後生大事に抱き抱え、そしてリクオを排しようとしているのかと思うと、胸の奥底からどろりと醜い感情が滲み出る。
「鴆くん」
 どうやら自分は自身で自覚していた以上に独占欲が強く、そして残酷であるようだ。
 これ以上阻害となるならば、あんなものなくたって、一向に構わない、など。自分と鴆との、世間一般で言う【愛の結晶】であるはすばなのに。
 夜の姿の時には喜んで見せたそれを見遣り、人の意識の強いリクオは薄暗い感情を飲み込んだ。
 鴆は、名を呼ばれて顔を上げるもの、その表情は硬い。
 笑みを、見ていないと思った。彼が卵を抱くようになってから。自分には、鴆は笑みを見せていない。
 はぁ、とこれ見よがしな溜め息を吐き出したのはリクオ。
「僕的にはさぁ、君が近付くなって言うからそうしてるだけで、別に強引にそっち行くこともできるんだよ?」
 食べないって言うなら、近付くよ。
 脅すように言えば、鴆の肩が一際大きく震えた。
 リクオが近付けば、鴆は問答無用で今は押し留めている毒羽根をリクオに向ける。それは鴆の本能で、彼の意思ではどうしようもない。だが鴆はリクオを傷つける可能性を自分自身が作り出すことが許せない。結局リクオが大事だから、リクオを傷つけないためにリクオの言葉を飲むしかないのだ。
 こちらを窺う小動物のような瞳。許しを請うように揺れるその眼に、ほだされてやる余裕など今のリクオにない。
 視線が絡み合えば、勝敗は火を見るよりも明らかだ。土台鴆がリクオに勝てるわけがなかった。
「勘弁してくれ……」
 食うよ。食やぁいいんだろ。
 無言の問答の末に蚊の鳴くような声で、そう言った。
 リクオはにこりと殊更に笑んだ。
「よかった。鴆くん朝も昼も全然食べてないって聞いたから心配したんだ」
「すまねぇ……」
「明日はちゃんと朝も一緒に食べようね」
 それは嫌だと顔を歪めるのを、勿論見ないふりしてリクオは片方の膳を部屋の真中へと引き寄せた。自身はそこからまた下がり、そのまま見守っていれば、鴆がじわりじわりと残された膳へとにじり寄る。
 片手で卵を抱きながらも箸を取ったのを見届け、リクオは「いただきます」と呟いて自身の茶碗を手に取った。
 鴆も小さくではあるが口を開け、皿に盛られた煮物を食べ出している。だがその動きは見ていて焦れったいほどに遅々としており、箸の先に乗った米粒は数えられそうな程の量しかない。
 そんな食事を、鴆はリクオが自分の膳を開ける前に終わろうとしたのに見かねて声をかけた。
「鴆くん、箸が止まってる」
 膳の上は手付かずと殆んど変わらない。見た目に彩りよくと若菜の手で飾り付けられたそのままの姿である。つまみ食い以下だ。
 びくんと肩を跳ねさせた鴆は、叱られた子供のように丸めた背でリクオを見上げる。
「勘弁してくれ……本当に、食えねえんだよリクオ」
「そんなわけないでしょ」
 離乳を始めたばかりの赤ん坊だってもっと食べるだろう。
 リクオは咎めるつもりで鴆を睨んだが、箸を置くに置けずに途方にくれる鴆はそれ以上は食べようとしない。その頬は明らかに卵を生む前に比べて一段と痩けているし、肌艶も悪い。栄養が足りていないのだ。こんな箸の先を濡らすだけで食事を終わらせていれば当たり前だ。
 妖怪は飢えくらいでは死なない。
 だが飢えれば体力は確実に落ちる。鴆の場合、それは間接的に死に繋がりうるのだ。ここで食事を拒否するのは、つまりはリクオの前で生を放棄しているのと同じことである。
「我が儘も大概にしなよ」
 リクオは自身の箸を置いた。
 そして次の瞬間、ゆらと姿を消したかと思えば鴆の肩が触れるほどに近くまで迫り寄っていた。
「リクッ……!」
 眼を丸くした鴆の背で毒色をした羽が広がる。空気を含み膨れ上がったそれを、鴆は飛ばぬようにと必死に押し留めた。
 本能に逆らうのだから、その肉体的な負荷は計り知れない。緊張に首筋の血管が浮き上がり、ぶるぶると肩が震える。背を丸め、堪えているのが卵にすがるようにも見えた。
 またその仕草に苛立つのだと。
 リクオは強引に鴆の手を取った。
「生まれる前の子なんて、何もしてくれないでしょ?」
 そんなものより、自分を頼ってほしい。もし鴆が守ってくれと言ったなら、自分は世界中の何を敵に回してでも彼を守るのに。
 鴆は掴まれた手を固く握りしめ、首を振る。
「離せっリクオ!」
「嫌だ」
「羽が……っ」
「離さないよ」
 リクオの肘が卵に触れた。硬質な感触に仄かな体温を感じた。それが、卵自身の温度なのか、抱き続ける鴆の体温が移ったのかは判らない。
 それを、肘で押し退けた。
 鴆の膝を転がる卵。
「お前っ……!」
 焦る鴆の視線が卵を追う。左足の上から右足の上、どうにかそこで留まったのに、安堵して。だがリクオは卵には見向きもしなかった。
「鴆くんが、卵じゃなくて僕を見てくれるまで、離さない」
「んなの、見てるじゃねぇか」
「見てないよ」
 鴆の反論を一蹴し、瞳を覗き込む。怯えるように揺れるのに、逸らすのは許さないと視線に力を込めればぎゅうと眉根が下がった。
 玉石のように綺麗な瞳の中にリクオだけの姿が見える。その事に、優越を感じながら、だがそれだけでは足りぬのだとリクオは鴆の頬に触れた。
「子供が生まれたら可愛がってあげる。うんと愛してあげるよ」
 今ここで卵が割れたとしても、自分は何も思わない。鴆が悲しむから傷つけないだけだ。鴆が大切にしているから手を出さないだけ。
「だけど、鴆くん」
 リクオはエゴイスティックな人間だから、自分の欲を優先させるのだ。
「君の一番は、誰にも譲らないから」
 多少の不便なら堪えられる。触れられないのだって、二日や三日なら我慢できるが、三ヶ月もだなんて冗談ではない。
 それなら卵など始めから要らない。
 自分と鴆との間の障害になるものならば、どうしてそれに愛を注げようか。
 本気を隠さないリクオに鴆は戸惑うように視線を天井、畳へと這わせて卵を見つめる。そしてリクオへと帰ってきた。
「お前……怖ぇよ」
「そう?」
「怖ぇ」
 繰り返し、鴆は差し出されていた煮物をぱくりと口に招き入れた。
 しょっぱそうに歪められたのは、味付けのせいか否か。
 何その顔、と思わないでもなかったが、眉を寄せながらも、緊張しながらでも、鴆はすりとリクオの肩に額を擦り寄せた。
「悪ぃな」
 相当の覚悟の末なのか、それはほんの瞬き二回分の間でしかなかったけれど。
「……ヒトってほんと、単純」
 リクオはぼそりと一人言ちた。
 たったそれだけで不快一色だった気持ちが上を向いたのだから、妖怪を笑っていられない。




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予想してたけど卵だしにいちゃつくだけの話になってしまった。
昼は夜みたいに鴆とオレの子だキラキラみたいなのにはならないと思って。夜はねぇ。一応喜んでたんだけど。
背徳式卵、この先はデンジャーゾーンにつきこれにて終了でございます。昼リクが卵割りそうだ。