こどもごっこ



※ねつ造鯉伴・先代鴆が出てきます。



 いい匂いがする。
 甘いそれに引き寄せられ、少年は顔を上げた。ふわりと何も見えないその宙空を、だが確かにその匂いが帯のようになっているのが判った。ふんわり優しい色付きで、匂いの帯が障子の向こうに消えていく。
(なんのにおいだ……)
 嗅いだ事のない匂いだ。だが悪いものではなさそうで、それどころか彼の小さな胃にそれはそれは魅力的に訴えるものだった。無意識に自身の胃のあたりを抑えていた少年は、その事に気付き、慌ててその手を離して辺りをきょろきょろと窺った。こんなはしたない真似を、次代の鴆一派の頭首ともなる己がしていたなんてもしこの屋敷の他の妖怪に知られては、子供一人満足に養えないのか、と父が馬鹿にされてしまう。
 幸い、先ほどから周囲に人気はない。
 安堵の息を洩らし、少年はそのまま全身の力を抜いてぺたりと畳の上に座りこんだ。青々とした畳がイ草の香りを漂わせ、甘い匂いとまじりあう。その中間で少年はふぅ、と息を吐いた。
 未だ本家の空気に慣れないので肩に力が入ってしまう。父は鴆一派の頭首で、奴良組の専属薬師だ。だからこうして時折本家に出向く。最近は顔合わせも兼ねて己も連れてくるようになった。だが大人の話は少年にはまだ早すぎて、だからこうして父の帰りを待っている。
 だが、本来どちらかというと快活な性格の彼に、この無言の空間は些か退屈に過ぎる。
 最初は本家の妖怪達が幼い子供を珍しがり、こぞって構おうと集ってくれたのだが、人間の女性に呼ばれ何処かへ行ってしまった。この屋敷は妖怪屋敷だ。その中住まう唯一の人間とは奴良組二代目総大将、奴良鯉伴の妻、若菜である。組の姐御の発言は絶対であり、彼らは一斉に子守りを放棄し、手伝いに駆られてしまった。
(そういや、リクオはどうしてるんだ)
 彼女と鯉伴の間には息子が一人いる。未だ生まれて間もない赤子ではあるが、彼こそがこの次代の鴆を襲名する己が仕えるべき相手である。
 リクオを探しに行こうか。
 本家の造りならば粗方記憶しているので迷子になる事はないし、なんといったって退屈なのだ。
 ざらりと畳を撫でていた拳をきゅっと握りしめ、立ち上がった。そうだ、序にこの匂いの元も辿ってみよう。何分美味しそうな匂いなので、朝餉を食べてからこっち暫く放っておかれた胃が空腹を感じ始めていて、些か切ない。
 そうときまれば。
 立ち上がり、障子に手をかけた少年の身体が、ふいに陰った。
「――ッ?」
 がらっと勢いよく障子が自動的に横へと開いて、驚き慌てて手を引っ込める。
 白い障子一面だった視界が、粋な縞模様に変わったのだ。眼を丸くして顔を上げた少年は、そこに人の顔を見つける。白皙の面に下がり気味の色気を含んだ眦、楽しそうに歪んだ口角は奴良組二代目、奴良鯉伴の特徴であった。
「おう、どうしたんだ鴆坊」
 赤子のリクオを荷物のように肩に担いだ奴良組の総大将は、至近に立っていた少年にからりと笑った。すぐそこに人がいた事。然もそれが総大将だった事に一気に緊張してしまい口を閉ざす少年に、うん? とその場にしゃがみこむ。
「どっかいこうとしてたんじゃねぇのかい? 厠か?」
「いや……あの、リクオ……」
 を、探しに行こうと思って。
 最後まで言えず、上目に見上げれば鯉伴はその言葉の続きを探ろうと二度瞬きをし、そして破顔した。
「リクオと遊んでくれようとしたんだな。ありがとなぁ。優しいねぇ鴆坊は」
 どっかの誰かさんとは大違いだ。
 そう言って、己の発言に大声で笑った鯉伴の言葉に応えるように、廊下の向こうから白い足先が現れるのを、鴆は見つけた。それは己の良く知るものである。あ、と小さく声をあげたが、それと同時になにやら感じる独特の気配に首を竦めた。
「誰かさんたぁ、私の事ですかい? 総大将」
 ひやり、とした声。およそ己の屋敷では効く事のない類の声音を使ったのは、顔を向けた少年の父親、当代の鴆であった。
 眼の前で鯉伴の笑みが引き攣る。やっべぇ、と口唇が形を作って。無論声には出していないのだが、鴆の眼はその動きをばっちりと見つめていた。
「そりゃあねぇ、どっかの誰かさんとやらはお優しくはねぇでしょうとも。ええええ、出入りに行ったきり十日も帰らねぇと思ったら腹に穴開けて帰ってきた主の治療に、病んだ身体に鞭うって二日徹夜しようとも、何処ぞの根無し女郎に入れ込んで同情した挙句あわや他所と抗争になりかけたのを、女をこっそり支那に逃がして戦争回避してやったとしても」
 無茶な担ぎ方に眼を回しているリクオをふんだくって、その柳のような腕にそっと抱く姿はたおやかで、その口元の笑みと言えば息子の己をしても見惚れずにはいられない美しさであるというのに。
「そのあとたんまりお小言がありゃあ、そりゃあねえ。お優しいたぁ口が曲がったって言えやしねぇでしょうとも」
 ちらりと呉れる目線だけは雪女のように冷たくて、鯉伴の額に浮かぶ冷や汗はじっとりと頬へと伝う。
「いや、感謝は! 感謝はしてるぜ!?」
「アンタの口先なんか信じませんよ。態度で示してくだせぇ態度で。一週間も大人しく屋敷で本でも読んでてくれりゃあ私も牛鬼の旦那もどれだけ気が休まる事か」
 そう言い置いて、ふぅ、と溜め息を吐いた鴆だ。喋りすぎて疲れましたよ、と言ってリクオに笑みを浮かべる。
「若はこんなロクデモナシに似ちゃあいけませんよ。しっかり立派な大将になって、うちの倅を出入りに連れて行ってやってくんなせぇ」
 あぶあぶと鴆の優しい表情に笑う赤ん坊。己より小さな存在を今まで知らなかった少年には、まるでそれは今も漂う甘い甘い香りのようだ。じぃと見つめていれば、気付いた父親がほらと腕を差し出すように促し、その細い腕に小さな命を預けた。
「――ったくお前さんは誰に似たんだか」
「アンタ相手に手加減無用だとはうちの親父が口酸っぱく言って遺してくれましたから。年下のくせに可愛げがなくてすいませんねぇ」
 べ、と空になった手を腰に当て、舌を突き出し笑った鴆だ。
 息子を取り上げられた鯉伴はがしがしと黒髪を掻き回し、苦く嘆息を。
「鴆坊に柏餅が出来たって言いに来ただけなんだがなぁ」
 なんで小言になったんだか。情けない声でぼやく姿からは、到底全ての妖怪の頂点に立つ男の威厳など欠片たりとも見えない。半妖だというからには妖怪たる姿をまだ他に持っているのだろうか。
 失礼だけれども想像もつかない、と内心で呟き、腕の中の赤ん坊に視線を向ける。まだ上手くだっこが出来ない少年の腕の中でも、リクオは大人しく笑っていた。
 その笑みにつられるように頬を緩める。真綿のような柔らかな頬に、木の実のように小さな口唇。闇より生まれ出る妖怪には、赤ん坊から成人という成長段階を踏まぬ者も多い。それゆえに一層珍しく、硝子玉のような瞳を縁取る長い睫毛も、その上の薄い眉毛も、何でこんなに小さいのに全て揃っているのだろうとただただ感動するばかりである。握りしめられた拳には、ちゃんと関節が三つあって、指の先には小さな小さな爪まであるのだ。
 こんなにも小さな生き物が、どうやって二十年足らずで成人するのだろうか。甚だ謎で、リクオを見つめていると、とんと父親に肩を叩かれた。
「柏餅だって、ほらいくぜ?」
「かしわ? って、なに?」
 聞き慣れない食べ物の名前だ。餅というからには、そしてこの匂いとあわせて想像すれば甘い餅なのはわかるけれど。
 鯉伴がちらりと顔を此方へと向ける。
「ちゃあんと粽もあるんだ。鴆坊は子供の日の祝いをした事ぁあるか?」
 粽って笹でまいた餅食って、兜被って鯉のぼりをあげるんだぜ?
 両手を広げて凄いだろ、と告げる顔はそれだけで楽しそうで、少年のようだ。ただし、全てが全て初めて聞くような言葉ばかりで全く想像が出来ない。それを傍らで聞いていた鴆は肩を竦める。
「生憎ですがねぇですよ。人間の風習でしょう?」
 本家と違い人の世との関わりの薄い薬師一派の頭首は、人の習慣にも興味はない。鴆の屋敷だって盆暮れ正月は祝うがそれくらいなものだ。
 今日彼らが呼ばれた理由は、どうやらその子供の日というものを体験するためのようだった。
「おうさ。皆が嫌う人間の風習よ。――だがなぁ、」
 鯉伴が振り返って笑う。リクオと、それを抱く少年を見つめて。
 眼を細くして、今までの悪戯なそれではない笑みを。
「子供が無事にでっかくなって欲しいって思う心は、人も妖怪も代わりねぇだろう?」
 愛しいのだと。その視線が告げる。
 気恥ずかしくて、リクオをぎゅうと抱きしめた。その頭を撫でる父親の掌。かさついた指が己の髪に絡むのを感じる。
「まあ、今回ばかりは乗ってさしあげますよ」
 頭を撫でられるなど子供扱いで好きではないのに、今ばかりは心地よいばかり。
 縁側から庭を見上げれば、見た事もない大きな布で出来た赤や青の鯉が三匹空を泳いでいる。

 甘い空気に包まれ、皆の待つ広間へと急いだ。





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→子供の日、に絡めて子供鴆を。と頑張ったのですが。
うっかり先代'sが楽し過ぎました(CPではない)。子鴆食っちゃった……
然しこんな時は切実に鴆に名前欲しい。でも鯉伴に鴆坊って呼ばすのは楽しかった。