月華に酔い狂うて逝く夢を。



 何時の間にか夜が訪れていた。冷たい空気の匂いに、そう感じる。
 床に就いたままの身では時の移ろいさえもあやふやで、たった今しがた感じたその匂いさえ、真であるか疑わしい。ただ昼間であれば聞こえる、庭で囀る小鳥の声が聞こえないので夜であろうという予想は正しいはずだ。
 鴆はゆっくりと布団に手を着き、身を起こした。
 ずっと起きているのも良くないが、ずっと寝たきりというのも血が溜まってよくないのだ。身体をおもんばかりながらうんと伸びをし、手を握っては広げる動作を繰り返す。
 体調は、相変わらずお世辞にもいいとはいえなかった。咳き込んだ苦しさに眼が覚めたのでなかっただけ上等だ。
 枕元には何時ものように組員の置いていった湯呑があるはずで、それを無造作に伸ばした手で掴み、口元へ運んだ。
 冷めた湯は美味いとも思わなかったが、渇いた咽喉を潤すにはちょうどいい。
 ゆっくりとそれを飲み干し、同じ場所へと戻す。
 そう、夜であれば感じることのない気配がそこにあることからも、やはり今は夜に違いない。
「来たのか、リクオ」
 そして外の方へと首を巡らせ、静かに告げた。そこに相手がいることを疑いもしない口で。
 鴆の言葉を待っていたかのように、からりと障子の開く音。夜の主は気配も足音も立てずにするりと室内へと入りこんだ。僅かな風の動くのだけが、その動きを伝える。
「敏いな」
 感心したような呟きを聞き、鴆はことりと首を傾げる。
「そうか?」
「ああ、前よりも気付くのが早くなったんじゃあねぇか? 前はお前……ッ!」
 言いかけ、途中で火を呑み込んだように口を噤んだ。一瞬で流れた気まずい空気。その理由をよく知る鴆は、口の端に苦く笑みを刻む。
「眼が見えてた分、他への意識が疎かだったって、そう言いてぇのか?」
「いや……すまねぇ……」
「気にしてくれるな」
 強がりで言ったわけではない。己の些事にいちいち心を痛める主に逆に申し訳なく思った。
 確かに、そうかもしれない。以前よりもリクオの気配に聡くなった。
 最近気付いたことだが彼が来ると明るくなるのだ。彼のあの記憶に焼き付いた美しい銀糸の髪が月の光を取り込んでいるかのように、彼が来訪したときのみ、闇ばかりを見つめる眼の裏に光が蘇る。どれ程深い闇であろうが遮ることの敵わない、全ての妖怪の頂点に立つ男の妖気だ。
 それを眩しく見上げながら、鴆は手ぶりでリクオに座るようにと勧めた。
「未だ、この間の酒があったはずだ。――中身はどれほど残っていたかな」
 言いながら部屋を這い、文机の傍に置いてあった酒を手元に引き寄せる。ちゃぷんと鳴った中身は随分と心許無いように聞こえた。
「あと杯にお互いが一杯ずつ、ってぇとこだ」
「成程足りねぇな」
 中身を確認したリクオの言葉に頷き、新しい酒を持ってこさせるよう、部下を呼ぼうとしたところをリクオにさえぎられる。
「いや、いい。酒を飲みに来たわけでもねぇ」
「酒じゃあなきゃなんだよ」
「お前の顔を見にきたに決まっているだろう? 部下をいちいち呼んじゃあ滅多なこともできねぇじゃねぇか」
 なぁ鴆、と不意に接近した主に耳打ちされ、ざわりと背筋がざわめいた。
 眼が見えない分、他の感覚が鋭くなったというのは真実で、声に含まれた艶を察した身体が身勝手に予感に震える。
 馬鹿な、と内心で吐き捨てた。
 こんな死にかけの盲しいに何時までも構っていることを、拒むべきであると理性では判っているのに。何時までもかけられる情けに甘え、ここにいてもいいような気になっている。
 闇に落ちた眼はもう何も見えなくて、何が正しかったのかも判らない。


 鴆の視力が費えたのはつい半年ほど前のことだ。
 何度も発作を起こす鴆からして、初めてだと思うほどの大きな発作を起こし、何日も意識がない状態が続き、死線を彷徨った。その際に体内を食い荒らした毒が、幾つかの臓器を腐らせた序でに眼の神経を侵したのだ。
 此れはもう死ぬ間際なのだと流石に誰しもが悟った。
 鴆自身も、段々と朽ちていく己の身体を理解していた。己の後継を傍流の一族から選び、屋敷に呼び寄せて身体の許す限り、鴆の知識を与えている。薬を調合することも出来なくなり、紙に書き留めることもできない。今ややることと言えばそれくらいしかないと言っても過言ではない。
 あとは、この気まぐれな主の酒につきあうくらいだ。


 杯にきっかり二回分の酒で咽喉を湿らせたリクオは、徐に布団の上の鴆を押し倒した。突然の動きでも、鴆が頭から落ちてしまわぬよう、後頭部はしっかりと支えられていたし、圧し掛かる重みも、十分鴆が耐えられるにとどめた重さだ。
「病人だぜこっちは」
 ちったぁ気遣え、と本音でもないことを言って鴆は笑う。
 その口唇を、減らない口を咎めるようにリクオの舌がぞろりと舐め上げた。獣の毛繕いのように口の端から顎の先端まで辿られる。
「――血の味しかしねぇな」
「まぁ、そうだろうな」
 日に日に死に近付く身体は、鴆の毒を耐えられない。身体が血を受け付けないのか、口内は常に鉄錆びた味がする。
 飴でも舐めてやろうか? と半ば本気で問えば、最中に咽喉に詰まらされても困るな、とにやりとした笑み付きで返された。確かに最中は、兎に角息が切れるので飴などがあったら不自由だと思い、口を閉じた。
 遠慮がちに触れた指先を、受け入れるように身体の力を抜けば労るように抱き寄せられた。触れ合った主の身体は若々しくしなやかな筋肉に覆われていて、熱い体温には内側に秘める力が滲み出ていて頼もしいばかりだ。
 対してリクオが今抱いているのは骨に皮が張り付いただけの枯れ木のような身体だろう。
 見ることはかなわないが、触れれば浮き上がった骨が嫌になるほど綺麗に浮かび上がっている。そんな身体を相手にしなくても、リクオならば他に幾らでも閨に呼べる相手がいるだろうに。
 袷を割った掌に胸元を撫でられる。薄い肌はリクオの体温を敏感に伝え、血の巡りの悪い冷たい身体に熱を呼び覚ますようにゆっくりと撫で擦った。
 ざわめく肌に心許なさを覚えて手探りで敷布を握りしめる。萎びた枝のようなそれに、リクオの掌が被さった。すっぽりと自身の手を包んだそれに、彼がまた成長したのだと知らされる。鴆の記憶にある主は、まだ僅かながらも子供らしさを纏ったままであったが、今の彼はきっともっと精悍な顔つきになっているのだろう。そう思うと役立たずな眼がひどく恨めしい。
 その分嗅覚はリクオの着物に焚き染められた香を敏感に嗅ぎとり、寄越された口付けの中に己の血以外の味を探し出す。
「はっ……あ、んぁ…」
 浅ましい、と思う。
 こんな身で未だ主を欲する己の罪深さは如何程であろうか。
 リクオの手は優しく、極力鴆にかかる負担を減らそうと心を尽くしてくれているのが随所で窺えた。以前ならば若さゆえに我慢の利かない部分もあったが、今の彼にあるのは余裕と慈しみだけである。真綿に触れるようにかさついた肌を撫で、潤わない奥処に丹念に香油を練り込んだ。
「っふ……、くっ…」
 与えられる快楽よりも、その優しさに涙が浮かぶ。
 自分に、ここまで愛される価値なんてない。
「リクオ……リクオッ!」
 不意に沸き上がる感情を堪えきれず、がむしゃらに伸ばした手を引き寄せられ、首へと導かれれば蜘蛛の糸にすがる罪人のようにそこにかじりついた。
 首に鼻先を埋める。滲んだ汗の匂い。生の匂い。
「鴆」
 主の声が胸の内の虚に響く。毒で爛れた内臓を吐きだしてしまった今、この声だけが鴆を今の世に繋ぎとめているようだ。
 涙腺が緩むのが、与えられる熱によるものなのか胸の内を巣食う痛みによるものなのか判らない。リクオの着物にそっと滴を染み込ませる。包み込む熱が愛しくて仕方がない。
 最奥に熱を受け止める。吐きだす精に子種はなく、凝縮した毒が僅かに飛び散った。
 

「何時までも……」
 放心気味に身体を投げ出した鴆は、宙の闇を見つめた。
 傍にリクオの身体がある。朝が来る直前まではそうしているのが常だ。
「何時までも、オレなんかに構うなリクオ……お前は、百鬼夜行の主だろう?」
 口が覚えた決まり台詞を言えば、態とらしい溜め息を返される。
「お前は眼が開いてても閉じてても、言うことはそればかりだな」
 心底呆れた声。
 何度言わすんだ、と言わんばかりの態度。怒っているのではなく、毎回決まり切ったことを言う鴆を楽しんでいるようでもあった。
「お前の意思や身体なんざ関係ねえ」
 リクオの髪が鴆の肌に触れ、細い首に柔らかく歯を立てられる。本能がそれを恐怖し、身が強張るのを小さく笑い、そして愛しさを隠しもしない腕で抱き締められた。
「オレはすべてを手に入れたんだぜ。愛しい男一人だけ諦めろたぁ、随分薄情じゃあねぇか。なぁ鴆」
 歌うように残酷な台詞を囁き、抱き合って尚冷たい身体に頬を寄せる。主の背に指で触れた。涙が止まらない。何も映らない硝子玉に月の光だけが輝く。己が唯一見る光。己のみを見る瞳。
 己の毒に捕われたままの主を、可哀想だと初めて思った。







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→うすら寒い話。
狂っているのは、さてどちらか。そんな話が書きたかった、はず。
書いてる途中に「……あれ?鴆たん死んでる」と気付いた。