月夜、嘆き抜く吾が無力さ。



 口唇でその名を紡いだ。

 その場から、逃げ出すように背を向けた。そこにいることが、許されないような気がして。
 一歩、後ずさり、縁側から庭へと降りる。身体中に絡みつく蜘蛛の糸を振り払うように、地を蹴り木の幹を蹴り上がった。
 屋敷内で一番高い樹の、空へと伸ばした枝の根本。切り離されたように、地上の切迫した空気からは遠い。音も緊張も、何も伝わってこない。
 照らす月。遮るもののないために満ちた月の光は冷たく冷たく闇を支配する。
 震える息を、細く吐きだす。
 眠る姿。苦しみ呻きをあげる事もなく、寝息さえ立てずにただそこに横たわる姿に覚えた感情は、恐怖。
 喪失の予感に、だが自分はただそこにいる事しか出来なかった。
 月に一番近い場所で宙に向かって手を伸ばした。視線の先の指先は、何も掴めず。
 大人になりきらない腕は未だ短く、到底月には届きやしない。この腕からすり抜けていくものを捕まえておくことさえ、出来ない。抱き締めて閉じ込めること、さえ。
 握る拳で数多の妖怪を薙ぎ倒そうとも、彼を迎えに来る死神を追い払うことは出来ない。どれ程地を駆け、ありとあらゆる秘薬霊薬を手に入れたとしても、彼を定めから救えない。
 ――何も、出来ない。
「…………ッ」
 声にしてはいけない気がする。また名を、音もなく呼ぶ。口唇が彼の名を呼ぶ。いらえがない。空間に身を裂かれるようだ。
 伸ばした手を引き寄せて、震える口許に押し当てた。
 未だ。未だ。とそれだけを願う。何でもするのに。自分に出来ることは全て、何の役にも立たない。
 静寂が針となって己に降り注ぐ。
 あれさえ自分のものであるならそれでいいのに。永遠でなくていい。ただ少しでも長く傍にいられればいい。
 それだけでいいのに。



「そんな所でなにしてんだよ」

 静寂を断つ、その声に反射的に視線を下へと向けた。
 縁側にある一人の姿。夜着に一枚羽織った姿で、障子に凭れてこちらを見上げる対の瞳。眉を寄せ、腕を組んで呆れ顔で。その肌は蝋のように色がなかったけれど、それ以外は至って何時も通りだ。
 鴆がリクオを見上げている。
 リクオの眼が、僅かに見開かれた。
「リクオ」
 じいと場を離れないでいると、降りることを促すように名を呼ばれ、ふらり、と糸を引かれた人形のように鴆の立つ縁側の傍まで降りたリクオだ。視線は鴆に段差分、身長差が更に広がっている。
 見上げる視線。袷の合間に覗く浮き出した鎖骨と、片手で折れそうな細い首。
 短命が宿命付けられた、儚い妖怪。定めであるから仕方がない、と笑ってそれを受け入れてしまった人。
「リクオ? お前一体なんだって泣いてんだ?」
 伸ばされた指が頬に触れ、軽く滑る。横に広がった濡れた感触に、遅れて己が涙を流している事に気付いた。いつの間に、と言えば鴆のこの顔を見たその瞬間だろう。
 倒れる度に不安になる。今度も大丈夫なのか。眼を覚ますまで怖くて、怖くて、とても側になんていていられないほどに。
 こちらの気など全くお構いなしに、怪訝そうに眉を寄せている鴆。表情ばかりは平素を保っているもの、色のない肌。痩けた頬が先まで生死の境を彷徨っていた事実を裏付ける。
 冷たいその指を掴み、そして肩から背に触れた。骨の上に皮が被っているだけ、の。この身体はあとどれだけの血を吐くのだろう。リクオの知らぬところで、どれだけの苦しみを抱くのだろう。
「……お前が悪い」
「なんだと?」
「お前が悪い」
 もう一度、八つ当たりのように言った。
 どれだけ力をつけても、どれだけの妖怪を倒しても。リクオが何をしたってどれだけ手を尽くしたって死ぬくせに。

 自分に甘すぎる彼は、月に祈るくらいしかさせてくれない。




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リクオはもうカッコよくて仕方がなくて、寄るもの問わずたらしこんでしまう程に強くていい男なんですが。
そんな男が唯一、等身大で向かい合える相手が鴆だとよい。だから年下らしく泣けるし、甘えられるとか。だってまだ12歳だもん泣くよ!!