見ていたのは、月ばかり。



「不便なもんだ」

呟いた声を、聞き留めるものはいない。己の言葉が宙に霧散するのを見送り、リクオは樹の幹に後頭部を押し当て、空を仰いだ。
曇ったり雨が降ったりと不安定だった数日間を取り戻すかのような晴天に、都会には珍しいほどの星が輝いている。連日の雨が空気の淀みを多少なりとも流し落としたのだろう。なにせ夜の自分の活動できる時間は短いのだ。こんないい夜に身が疼くのは当然のこと。
然し今日ばかりはそれが叶わない。
リクオは数日前まで床に伏していたのだ。その原因はといえば続いた連日の出入りに、昼の人である自分の身体が耐えられなくなったというもの。漸く布団を出ることは許されたが、動くのは屋敷の中のみ、外出は禁止だと、雪女にも首無にもきつく言いつけられている。
ばかりか夜のリクオは心配ならないとでも言うように朧車と鯰型妖怪に他の用事を言いつけて外出させているので、こっそり出掛けようにも足もない。
お陰で外には出られないが、かといって布団にも飽き、こうして屋敷の庭で時間を潰しているのである。その気になれば誰にも気づかれずに外に出るくらいは容易いが、そうすると昼の自分が怒られる。それも厄介な話だ。
退屈を露に空を眺めていたリクオは、視線を空から屋敷に戻した。庭で一番背の高いこの樹は庭に面した屋敷の棟の向こうまでが見渡せる。視線は、一ヶ所に留まった。
そこは客間でありながら客間でない部屋だ。外から来た客を通すと言う意味では客間で正しいのだが、その場に応じ不特定多数を泊めると言う意味では正しくない。そこは、薬師一派の長がこの屋敷に滞在するときに使われる部屋だ。
その部屋だけはこの屋敷の中でも一種独特だ。総大将やリクオなどが倒れた際には通いではなく屋敷に逗留して治療に当たることから、部屋には薬師が持ち込んだ道具などが常設されていて、屋敷の人間でも限られた人間しか触れることを許可されていない。客間でありながら客間でない、特別な部屋だった。
今、その部屋には灯りが灯されており、障子越しの淡い光が闇に淡く滲み出ている。薬師の部屋に居るのを許されているのは現在のところはただ一人。
リクオはひらりと跳躍し、屋敷の棟を乗り越え、その奥へと飛び降りた。人としてならありえない距離をものともせず、猫のように足音ひとつ立てずに地に足をつけたのは、件の部屋の前。
静かな夜だったので、耳を澄ませば中から何か独特な物音が聞こえてくるのが判る。リクオは僅かに眉を顰め、濡れ縁にあがるとそのまま障子を開いた。
「何時までやってんだ」
「ぅお…ッ! リ、リクオ?」
余程集中していたのか、中にいた男の肩が眼に判るほどに大きく跳ね上がった。声は裏返り、振り返った眦は大きく見開かれ、きゅうと瞳孔が窄められている。
「そんなに驚くか?」
猫が背を逆立てているようなその反応に、なんとなく罪悪感を感じてリクオは後頭部を掻いた。あまりにも驚かせすぎて心臓が止まってしまったら困るのだ。相手が相手なだけにその可能性がないとも言い切れない。
「そりゃお前……」
言いかけた男、鴆はそこではたと口を閉ざし、そして表情に見る見る憤りを宿していった。
「なんだって起き上がってんだリクオ!」
「もう治った」
けろりと言い返せば、即座に「そんなわけあるか!」と噛み付きそうな勢いで返される。リクオは悪びれる素振りもなく、軽く肩を竦めた。
若が倒れたと聞いて取るもの取り敢えず駆けつけて来た鴆だ。その後も帰るに帰れずこんな時間まで仕事をすることになってしまったというのに、当の本人がこんな時間に起き上がっているのだからいい顔が出来るわけがない。
「昼にはまだ熱があっただろ」
「そんなもん、てめぇの薬飲みゃあ夕方には下がっちまったよ」
鴆の薬はよく効く。と嘯くでもなく続ければ鴆は満更でもない顔を一瞬見せたが、すぐに首を振った。
「また明日の朝ぶっ倒れでもしたらどうすんだ。オレが嬢ちゃんに怒られらぁ」
この屋敷でリクオに過保護なのは鴆だけではない。特に雪女は側近として幼い頃より仕え、昼のリクオをよく知る分その世話の甲斐甲斐しさは奴良組一であるだろう。今日の昼もまだ熱が下がらないことをしつこいほどに鴆に訴えていたのは、記憶に新しい。
「あいつは特別だ」
昔からそうだったが、妖怪になることができて以降もそれが直らない。母である若菜よりもよほど口煩いのだ。
リクオは面倒くさそうに口を曲げたが、異を唱えるのは鴆だ。腕を組み、座っているため、下からリクオを睨みあげる。
「特別もあるか。お前さんは次期総大将だ。大事があっちゃあいけねぇって思うのは誰だって一緒だろうよ」
それを聞いたリクオは鼻を鳴らした。そんな言葉を聞いたところで欠片の罪悪感も浮かばない。
畳に足を滑らせ、鴆の脚に爪先が触れるほどにまで傍による。必然、首を目一杯反らさなければ鴆はリクオを見上げられず、その突き出された顎にリクオは指をかけた。
「相変わらず可愛くねぇ口だ」
言いながら、親指で鴆のかさついた口唇をなぞる。たったそれだけで、サッと目許に朱を差し、身を震わせる姿は愛らしいのに。
よせ、とリクオの手を払う鴆は吐息と熱気を吐き出した。
「兎も角、早いとこ部屋に戻んな」
「ふぅん?」
聞き分けのない子供を宥めるような言い方だ、とリクオは眉を上げた。
「お前は冷える廊下を裸足で歩いて部屋に戻れって言うのか」
本家の屋敷は現代の一般的な一軒家とは比べ物にならないくらいに広い。この部屋とリクオの部屋は中庭を挟んだほぼ真向かいで、屋敷を半周しなければ部屋には戻れない。
それを知らぬわけはない鴆は眉間にくっきりと皺を刻み、溜め息を吐いた。
「……ハナッからそのつもりだったんだな」
リクオに甘い鴆がそんな寒い思いをしてまで帰れというはずがない。体調を崩していたのであればな尚更。来た時と同じようにして帰れと言ったところでリクオが聞くわけないことも鴆が判っている事まで、リクオは判っていた。
「いや? お前がつれないことを言うんじゃなきゃあ共寝でもして帰る気だったさ」
「一緒だバカモン。でもな、今日は駄目だ」
頭を掻いて低く呻いていた鴆だが、きっぱりとした口調で仕事があると言う。
「若が倒れたってんで仕事中断してきたんでな。こいつだけは片付けねぇと」
そう告げる鴆の表情は薬師の顔。そっちに関しては門外漢であるリクオはおとなしく引き下がった。
「部屋には戻らねぇぞ」
見ている、と言えば鴆は眉を寄せた。
「見てて面白いもんでもねぇだろ」
「いいさ。鴆が倒れちまわねぇよう見張っててやるよ」
「そこまでヤワじゃねぇよ」
言ってろ、と吐き捨て、本当に手元にあるままだった乳鉢に向き直る。
リクオは閉めた障子にもたれ掛かるようにその場に腰かけた。すると鴆の方から手裏剣のように座布団が畳を滑ってくるので、ありがたくそれを尻の下に敷いた。鴆は諸々の道具と共に布団の上に移動し、そこで作業を再開させる。
リクオはその背中と、そして部屋に満ちる薬草の匂いを楽しんだ。鴆の体臭の一部と言っていいほどに彼の身体に染み付いた草の匂いだ。五感のうち最も記憶に影響するという嗅覚が覚えた匂いに安堵にも似た心持ちになる。
草の匂いを纏う鴆の背中は、もはやリクオを意識していない。僅かな誤差も許されない作業に、すべての意識を集中させている。その背中は凛と張られていて、綺麗だ。背中に隠れて手は見えないが、あの細く節のある指が細やかに動いている様子なら容易に想像することが出来た。
リクオは知らぬ間に口許に笑みを浮かべていた。流石に背中のみでは退屈するかと思ったが全くの杞憂だった。こんないいものを一晩中見ていられるなら部屋に閉じ込められるのも耐えられよう。いっそ己が寝ている間は鴆がリクオの部屋で作業をすればいい。どうせ自分の部屋とこの部屋を行ったり来たりしているのだから。そんな勝手なことまで考える。
秤に摺っていた物を乗せる重さを量る時に最も緊張するのか、その肩に力が入った。彼の精神が一振りの刃の切っ先のように尖るのが判る。
尖った肩は華奢ではあるが、貧弱には見えない。抱きしめれば一目瞭然の筋肉の薄い、骨張った身体だが、一見でそう見えないのは、その上に乗っているものを上手に支えているからだろう。薬師一派は牛鬼組のように表立って派手な活躍をしないため、組の中では彼らを侮るものも少なくない。鴆のような、短命が宿命付けられた妖怪が一派の長であるのも関係しているだろう。然しそんな中でも鴆は全く物怖じしない。年下としての節度は守りながらも、リクオの祖父の代から使えるような年嵩の妖怪とも台頭に会話しているのを何度か見かけたこともあった。
然し見ただけでは判らない、彼の抱き締めれば折れそうなほどの細さも知っている。鳥の妖怪である鴆はもともと骨が細い。飛ぶことがなくなった元服後も病もあって、体重は下手するとリクオでも片手で抱えられてしまうんじゃあないかと思うほどだ。腰も細く、幼い頃から着物を着ているからかがに股で歩いたりもしないから、脚のラインも綺麗だ。
その時ふと、鴆の張り詰められていた気が緩んだ。肩の力が抜け、振り返る表情はげんなり、というか、うんざりというか。
「リクオ、そりゃあ態とか?」
そう、問いかける。
「あ?」
訝しげに返せば、鴆は複雑そうな顔で俯き、「態とじゃねぇのかチクショウ」などと呟く。
「おい鴆、何の話だ」
兎も角なにか言いがかりをつけられたのは間違いなく、むっとしたリクオが再度問えば、鴆は言い辛そうに視線を逸らす。然しこんな意味深な言い方をされれば答えを聞くまでは納得できず、尚も強い眼で見続ければ、鴆は観念したように上目でリクオを見上げた。
「だから……気になんだよ」
「なにが?」
しつこく問うリクオに、吹っ切れたのか逆ギレしたのか、鴆は今度はきっと眼を鋭くして。
「お前のその視線だよ! チクショウ視線が気になって集中できねぇなんざ薬師の名折れだ!」
真っ赤になって、叫ぶ。叫んだ後で羞恥が込み上げてきたのか、耳まで真っ赤にして視線を逸らした。
リクオはそんな鴆の様子に一瞬呆気に取られたが、表情が徐々に弛んでいくのはどうしようもない。また抑えるつもりもなかった。
にんまりと口角をつり上げ、リクオは鴆の横顔へと視線を送る。
「そりゃあ……悪かったなぁ?」
鴆、と名を呼べば肩が震える。逸らされた視線に再び名を呼んだ。意思を込めた声に、抗う術もない操り人形のように鴆の視線がリクオへと戻される。眦を彩る朱が病的に白い肌に色気を添えていた。
リクオの指先が、己の口唇に触れた。鴆を見つめながら、ゆっくりと先ほど彼に触れたときのように動かせば、一層鮮やかに染まる華。居心地悪そうに布団についた膝をにじらせる鴆は、然しリクオから視線を外さない。もうそこしか見るものがないとでも言うように。
ふ、と空気が揺れる。
立ち上がったリクオを見上げる鴆に、夜の主は悠然と笑みを浮かべた。
「やっぱ共寝だな。お前もその気みたいだし?」
一度は引いてやった袖をつかんできたのは鴆の方。
逃してなんかやらないと視線で告げれば、真っ赤になった鴆の身体から力が抜けた。




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いちゃいちゃさせたかったんですが。
鴆は初心なのも可愛いけどそれなりに世間知ってるのもよいと思う。
洋服着た鴆が見たいなぁ。スタイルいいから絶対カッコいい。