月に灯れ不知火の夢。



赤が咲く。空から滴り水面に跳ねるように。
ほんの一瞬を鮮烈に彩る。


夕暮れに己の足元に影が広がる。鴆は影踏みをするように歩くその先を導く影を追いかけた。
昼間は残暑を思わせる汗ばむ気温だったのが、日の陰りと共に風に含まれる冷たさが着物越しに肌の表面の温度を徒に下げた。一枚羽織ってくるべきだっただろうか。屋敷を出るときには何も声をかけられなかったから、大丈夫だろうと思ってしまった。
そんな風に内心で言い訳した自分に自嘲の笑いを溢す。半人前のガキじゃあるまいし。だが、短命な自分の一族に支える妖怪は祖父の代からの付き合いも多く、そのせいか妖怪として成人を迎えた今も度々過保護すぎる言葉を掛けられるのだ。煩わしいとか思うより、もう慣れてしまった。
中でも一番自分を過保護に扱ったのは、本当に自分が幼い頃から教育係として一番傍にいた。
「裏切られてんのになぁ……太夫、てめぇに花手向けに来たなんざ、他の奴らに知られたら叱られるんだろうぜ」
鴆が足を止めたのは山裾の一画だ。一見したらなにも変わったところのない山道だが、自然に溶け込むように大振りの石がある。自然と見せかけてはいるが、元はここにあったものではなく、鴆が運んできたものだ。
その石の真上で、鴆はここまで持ってきていた瓢箪を栓を抜いてからひっくり返した。瓢箪が内包していた酒がとくとくと石に降りかかっていく。一段暗い色合いになったそれを見て、鴆は嘆息ともつかない息を漏らした。
これは墓標だ。銘もなにも刻まれていないが、鴆にとってこの場所は己の側近であった妖怪を偲ぶ場所だった。
「てめぇを憎もうとしたよ。裏切りモンだからな」
この石の下には何もない。妖怪の死体は残らないのだ。彼の死んだ後に残った一握の砂は炎の起こす風に舞い上げられて何処かへ飛んでいってしまった。家屋敷が焼け、すべて失った。
墓なんていう概念も妖怪には本来ないものだ。人の姿で生活している内に人の世に感化されてしまったのだろうか。
尤も、彼は卑劣なやり方で鴆一派を裏切り、当主たる鴆を殺そうとまでしたのだから、例え妖怪に墓を作るものがいたとしても綺麗に埋葬などされるわけがない。
だから、この場所は部下にも秘密だ。知られれば一派の組頭の自分とてきつい叱責を受けるだろう。事によっては今いる部下を裏切っていると思われても仕方がない。
「てめぇとは、思い出がありすぎらぁ……」
良いも悪いも、と小声で吐き捨てるように呟き、背後を振り返った。山頂から湧き出た水が小さな流れを作っている。その流れに沿って彼岸に咲く花が、灯火のように鮮やかに広がっていた。黄昏に染まるなか、一際赤く焼き付くそれに眼が奪われる。
空から滴った雫が弾けるように広がった花弁は内に花芯を内包して天を向いている。
これがこの時期にしか咲かないのは道理だと訳もなく思う。否、理由ならあったのだろうが、鴆自身がそれを言葉に出来なかった。
命が尽きるように今日という一日を照らした太陽が闇に飲まれてその姿を消すと、辺りは夜の闇に包まれた。だが漆黒にはならず、鴆の視界には相変わらず赤が咲いていた。
妖怪は闇より生まれ闇に還る。人間のように輪廻転生だの死者の国などという考えはない。だがぼんやりと、死んだものに行き先があるとしたなら、そこへ行き着くための道とはこんなものだろうと考えた。
血の雫よりは鮮やかで、火というには繊細な灯火のような花が闇を仄かに彩る。
風が冷たく首筋を撫でる。日の温もりを含まないそれは先よりも冷たかった。
やはり、少し寒い。
そう思ったのと、己の身体がふわりと人肌に包まれたのは同じタイミングだった。
「なぁにしてやがる」
「リクオ……」
夜のリクオは背中から鴆を抱き締めている。無意識の内に鴆は背中の力を抜き、リクオの胸に寄りかかった。腕の力が強くなる。
「風邪をひく。こんなとこで一人で何やってんだ」
リクオの声はあくまで優しく、気遣わしげだ。夜の畏れを纏うもの、ここにいるのは一人の情人を心配するただの男ということだろう。
気遣いがくすぐったく、だが確かに嬉しくもあり、鴆は口の端で笑った。
「墓参りだ。ただの」
「墓?」
何の事か判らずに聞き返したリクオだが、直ぐに思い当たったようだ。背後の気配が変わる。
「お前まさか……」
鴆は答えず、己の胸で組まれたリクオの手に、自身のそれを重ねた。元々体温は鴆の方が低く、重ねた手の甲はじわりと暖かい。
「怒んなよ。まぁ、お前さんにゃあ怒る権利があるんだが」
「怒りはしねぇよ」
その言葉を信じるには声に棘がありすぎる。リクオに怒られると何も言えなくなってしまう。彼の畏れは有に己を縛り付けるし、義兄弟とはいえ彼の下僕の一人である自分はリクオに口答えしてはいけないのだ。困ったな、と内心で思ったのと同じタイミングで
「妬けるがな」
リクオが言葉を重ねた。
「リクオ?」
言葉の意味を問おうと背後を振り返ろうとした鴆の身体がリクオの手によって反転させられる。正面のリクオの顔は、珍しく苦虫を噛み潰したかのようなしかめっ面。
そんな顔をする理由が判らない鴆は眉間に皺を寄せて首をかしげる。すると、見るなとでも言うように口唇を塞がれ、視界を閉ざされた。触れて、離れた後もぴたりと密着した身体は離れることなくリクオの背中の景色しか見られない。うなじにリクオの息が触れる。
暫くそうしていた。先に動いたのは言葉を途切れさせていたリクオの方。
「お前から得た信頼は変わらず、死んで一層忘れられねぇ存在、か?」
蛇太夫の事だ。
信頼。そうだ、自分は彼を信じ、頼っていた。反旗を翻されたあの日、己の命を奪われようとした瞬間でさえ、未だそれが真実とは思えなかった。彼と過ごした月日はそのまま己が存在した瞬間からの月日でもあった。
忘れられないと言えば、そうだろう。彼の死はこの先死ぬ間際にでも忘れず己の魂魄に刻み込まれているに違いない。
「今日だけさ。もう、ここには来ねぇよ」
だがそれは、リクオが思っているような理由ではないはずだ。
小さく笑った鴆は、まわした手でリクオの背を宥めるようにたたいた。
「ケジメみてぇなもんだ。お前さんが気に病むようなややこしいもんじゃあねぇ」
確かに忘れられはしないだろう。彼を失ったことを、未だ暫く引き摺るかもしれない。
それは必要だからだ。リクオの思う、感傷なんかだけではないはずだ。
「リクオ」
鴆は身体を離した。正面から眼を合わせるのは、この言葉が嘘偽りないのだと信じて貰うため。
「同じ馬鹿を繰り返しはしねぇ。今日はそれを誓いに来た。部下に足元掬われるなんてぇみっともねぇ真似は二度と起こさねえ、その為だけだ。裏切って死んだのが蛇太夫じゃなくたって俺はこうした」
リクオの表情が揺れた。意外だっただろうか。
「命尽きる時はあんたの傍でって決めたんだよ。そうさせたのは、リクオだ」
最後にそう告げて鴆はリクオの頬に触れ、口付けた。
上手く、伝わればいい。言葉を選ぶのは下手だから、せめてこの覚悟だけでも。
そう願った鴆の腰にリクオの手が回る。強く引き寄せられる。熱に包まれて、さっきまで寒いと感じていたのが嘘のようだ。
「男前過ぎて惚れちまうぜ。流石、俺の鴆だ」
口唇が触れ合う距離で囁き、また深く口付ける。鴆はそれを瞳を閉じて受け入れた。
彼の傍で少しでも長く生きていたい。ずっととは願わないから、少しでも。それを妨げるものがあればそれが何であろうと、もう自分は容赦しないだろう。
この姿を見てしまったから。
重なるシルエットは月にも照らされず、ただひっそりと闇に溶けた。




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彼岸花の話でした。鴆と赤はよく似合う。
原作と時間軸にずれが生じてますが気にしたら負けだと思ってます(爆)。
実は今度オフで出そうと思ってる話の前フリというかオチというか……