水面の月に掬せし月華。



夜の風と共に、彼は現れた。
濡れ縁から外を眺めていた鴆は気配に振り向き、その姿を見ると驚きにつり上がった目を丸くした。
自分がここにいることを連絡をした覚えはあったが、態々様子を見に来るなどとは思いもしなかったからだ。
百鬼夜行の次期三代目総大将は露の気配を纏い、相手の意表をつけたことに対する満足に、ゆると笑った。
「よう、篭なしの小鳥ちゃん」
夜闇の中だというのに仄かに光を纏うように見えるのは、彼の妖気に己があてられているためだろう。にぃとつり上がる口角に、つられるように苦笑交じりに口の端を歪めた。
「小鳥はねぇだろ」
これでも年上だ、と言えばリクオはくつくつと笑った。
「雛みてぇに弱いんだから強がるな」
他の者に言われたなら喧嘩を売っているのか馬鹿にされているのかと憤るに違いない、だが彼に言われればその通り過ぎて否定する気さえ起きない言葉を吐き、己の傍らに腰かけた。
夜も更けて本来闇夜の住人である己らにとっては最も血の騒ぐ時間だ。鴆も床を離れ、闇にうかぶ仄かな光に目を向けていた。
本家と己の屋敷のあった場所とのほぼ中間に位置するこの屋敷は、本家で己の身を渡り鳥よと嘆いたのを聞いたらしい鴉天狗に紹介された。
本家の別邸で、昔は貯水槽として使われたらしい溜め池の傍にある。総大将が若いころに蛍を愛でるために建てさせたという。都市開発の波からも逃れたこの辺りは今建て直している屋敷の周辺と同じように、自然の匂いが残っている。ちょうど今の時期、鴆の視界の先には番を探す雄蛍がその身を光らせながら飛び交っていた。
本来水場は身体を冷やすので長留は出来ない。然し鴉天狗にも主張はあるようで、曰く仮にも本家の若頭と契りを交わしている鴆が腰を落ち着かせられる場所ともなれば適当に済ますわけにもいかないと。それでこの屋敷だ。別邸と言えど部屋数もそれなりで、腹心を失った鴆が不自由することのないよう、本家から小間使いの下級妖怪も寄越されている。当面、鴆の屋敷の修繕が終わるまでの仮の宿だ。
鴆の体調を伺おうとしたリクオは、空気の湿り気に眉をひそめる。蛍を愛でるための屋敷であるからして外と内とを隔てるものは薄い障子のみだ。妖怪の屋敷なので人の泥棒であるとかそうしたものの心配がないからではあるが、これでは閉めたところで意味がない。だからこそ、鴆も開けっ放しにしているのだろうが。
「身体が冷えるぜ」
「ん? これでも今日はましな方さ。気温も、オレの身体もな」
言葉に偽りはない。夏に向けて上昇する気温は鴆の体力を奪いもするが、今日は目覚めたときから身体は軽いし、咳も出ない。その事をリクオにも告げたのだが、まだ不満そうだ。
腰かけたそこで態とらしく吐息を落とす。つい先日だ。彼から差し出された提案をありがたくも断った。彼の与えてくれるものならばそれがいいものでも悪いものでも全て頭を垂れて拝受したいが、そればかりは受けかねた。それがこの、嫌みらしい溜め息の理由だ。
「態々こんな古い屋敷使わねぇでも、うちの離れにいりゃあいいだろう」
それが彼の言い分。
「そういうわけにもいくかよ。盃交わした仲でもオレは本家の人間じゃねぇんだ。年寄りに付け入らせる隙を作るような真似はしたくねぇ」
然し鴆にも言い分があるので、当たり前のけじめだと前回と同じことを言う。それを聞いたリクオは、ますます不愉快そうに顔をしかめた。年若く、またつい最近まで総大将を継ぐ気もなかったリクオにはまだまだ妖怪世界の仁義が染み付いていない。鴆の懸念も、恐らくは正しくは伝わっていないのだろう。だからこそ本家を始め自分のようなものが気を使っているのだが。
「それに寝床に蛍たぁ風流じゃねぇか。総大将も粋な屋敷を造りなさる。流石、趣味がいいよな」
不機嫌になるリクオの意識を逸らすべく、鴆はそう言った。だがどうしたわけか、リクオは鴆の眼を見つめながら、怒りにも似た表情を浮かべた。
「おい」
ずいと一層に近くその身が鴆に近付く。何も可笑しなことは言っていないはずだが、と思うのと同時。
「テメェ、オレにはタメ口であっちには敬語か」
危険な低音で囁かれた言葉に、鴆は大きく瞬きをした。敬語は止めろと、それは次期総大将に対するけじめだと主張した己に、彼自身から命じられたことなのだが
「そりゃあ、総大将にはオレのじいさんの代から恩義があるからな」
敬意を払うのは当たり前だ、と平然と返す鴆だ。ほぅ、と返したリクオの声が誤魔化しようのない剣呑さを孕んでいる、と気付いたときにはもう遅い。
がつりとリクオの手が鴆の後頭部を鷲掴んだ。ずいと寄せられた顔。昼の幼い顔ならば笑って誤魔化せる距離も、夜の彼ならば話は別だ。
つり上がった眦に宿る対の焔。射抜くとはまさにこの事かと知らされる、鏃よりも鋭い視線が視覚のみならず身体の髄にまで突き刺さる。
「てめぇ誰と盃交わしやがった?じじいか、あ?」
「リクオ……」
不機嫌に問われた鴆は眉を下げる。何と言っていいのか判らず、かといって何も言わないのは尚良くない。困るのは夜の彼と言えばぬらりひょんの血を継ぐ、いずれは百鬼夜行を率いる大妖怪となるに足るだけの力と、そして気概を兼ね備えているくせにまだ人の身にして齢十をいくつか過ぎただけだということ。つまりは夜の彼がどれだけ大人びて見えようがまだまだ子供。
睨み付ける視線は本家のものが見れば流石はぬらりひょんの孫と褒め称えるに違いない。鴆とてこんな状況でなければそうしただろう。実際は己の些細な一言で妬心を焼いているだけだと知らなければ。
「心配せんでもオレァこの身の毒の一滴までもお前さんのもんだ」
出会ったときから決まっていたこと。幼い頃から彼のためにこんなささやかな命でも役に立てるなら、と伝えられる限りの知識を与えてきた。盃を交わす以前より、己の主は彼一人だった。
知らないわけはないだろう、と言外に問えば後頭部を掴む力が抜け、代わりに先とは反対の優しい指先が鴆の頬を擽るように撫でる。この扱いの難しい主の機嫌は、簡単に治ったらしい。
「判ってないのはお前の方だ」
言葉と同時に口唇が触れる。血の巡りが悪く、冷たい鴆にリクオの体温が流れ込む。かさつく口唇を熱をもった舌がなぞり、やわらかく溶かしてまた深く触れ合う。
貪るというほど荒々しくもない、鴆に呼吸の余裕を与えたままのゆるやかな口づけ。理性を奪う激しさはなく、ただただ互いの心を伝えあうだけのものだ。
「あまりオレを挑発しないほうがいいぜ」
触れる箇所を耳へと移し、息を吹き掛けるようにリクオが囁く。その、くすぐったいと紙一重の予感に鴆の首が粟立った。
鴆の身体を引き寄せていた手が、するりとその背を伝う。
「知ってるだろ? ガキは我慢できねぇんだぜ?」
低く鼓膜に響く、甘い睦言。息を呑む鴆は、喉を仰け反らせて。
「…っは、普段はガキ扱いなんざ、させねぇくせによ……」
「もう、黙れよ」
再び、リクオの口唇が鴆の口を塞いだ。背を掻き抱く手に、鴆は口の端で笑って身を任せた。




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→ヨルオも気を許した相手には多少子供っぽいといい。俺様じゃない我儘とか。
いいじゃんだって鴆はどんなリクオだってメロメロなんだから(笑)
ぬら孫習作でした。鴆が好きすぎてどうしよう主に自分自身が。